コラム

ファーストキスより、忘れられないキスの記憶、ありますか?

第九夜 けつまつのない、ものがたり

色気のないことに、ファーストキスについてはすっかり忘れてしまったけれど、
ひとつだけ、鮮明に覚えているキスの記憶がある。

まだ制服を着ていたころ、ずっとまえに卒業した先輩が、
長い海外旅行から戻ってきたという連絡を受けた。

当時流行りだったSNSを通じて、卒業後もやり取りをしていた私は
彼の帰国を受けて、また部活に遊びに来てくださいよと何気なく返した。

そこからどんなやり取りをして、二人で会うことになったのかは正直覚えていない。
とにかく、暑い夏の日、池袋で私たちは待ち合わせをした。
先輩は、足を折ったと言って、松葉づえをついてやってきた。

暑くて、足も痛いので、歩きたくないんだと、先輩は自分の家に来ないかと誘ってきた。
さすがの私も、多少の意味は分かる年齢だったので警戒をした、ような気がする。

けれど、久々に会う先輩だったのと、彼の足が本当に痛々しかったので
私ははい、とうなずいて、二人で西口のタクシーに乗り込んだ。

久々に会ったら、大人っぽくなった気がするよと、記憶よりもゆったりした口調で言われた。

先輩は半ズボンをはいていた。
一緒にいる男の人が半ズボンをはいているのを見たのは、小学生以来で、
この人は私よりも全然年上なのに、不思議だなとぼんやり想った。

住宅街を抜け、心臓がばくばくした。
ああ、二人きりになってしまうのか。
どんな立ち振る舞いをすればいいのか、私は今汗臭くないのか、
迷って迷って、何度も、ここら辺に来るのは初めてですと、窓の外につぶやいた。

到着した先輩の家は、思ったよりも普通の一軒家で、
大学生が住んでいるイメージの、アパートとは全然違った。
鍵の空いたままのドアを開けると、リビングにおじいさんが座っているのが見えた。

気づかれないようにしなくてはいけないのかと思って息をひそめていると、
先輩はどたどたと音を立てて靴を脱いで(それは松葉づえだから仕方ないのだけど)
拍子抜けするような大声で、おじいちゃんに声をかけた。

ただいま、じいちゃん。

おじいちゃんはゆっくり振り向いて、ゆらゆらと手を挙げてこたえた。
私は焦っておじゃましますと言うと、おじいちゃんはこんにちはとこたえた。
私はまた焦って、こんにちはと。

先輩はくすくす笑いながら階段をのぼって行った。
私は慌てて追いかけて、先輩が転がってきたらどうしようとハラハラした。

二階には柵がついていて、そこには犬がいた。
犬種は何だったか、おとなしくて、初めて見る私におびえて近づいてこない犬だった。

犬に見つめられながら入った先輩の部屋はとても片付いていたけれど
低いテーブルに、二つビールの空き缶があった。
棚にはぎっしりCDが詰められていて、どれも知らない人の曲ばかりだった。

痛い痛いという先輩をソファに座らせて、きょろきょろやっていると、窓が開いた音が後ろから聞こえてくる。
外に舞い上がっていく煙が、先輩をひどく大人に見せた。
部屋の外の犬はもういなくなっていた。

先輩、海外って、どこに行ってたんですか。
そう聞くと、古いパソコンを引っ張り出して、行った先々で撮った写真を何枚も、何枚もめくって見せてくれた。

ベトナム戦争の被害者の博物館の話を聞いた。
何人かのエピソードを話しては、先輩はとても悲しそうな顔をして涙をにじませた。
ああ、この人は大人になってしまったけれど、私の知ってる先輩なんだ。

自分の知らない世界を知っているこの人は、いったいどんな人になるんだろう。
私も、こんなふうになれるのだろうか。

そう思って、じっと彼を見つめたとき、私は初めてたばこの味を感じた。
私の脳にまだ残っているキスの記憶。

そのあと、先輩とどうなることもなく、夏休みは過ぎていった。
あの後付き合った男の子と初めてしたキスは、覚えていられなかったのに
あのキスだけは、いつまでも私を10代のあの日に戻してくれる。

たまに、町ですれ違う。
あの人と同じ匂いの人と。
私はなんだか気恥ずかしくなって、振り返りはしないけれど、
どこかで、またあんな気持ちになれる日を、探している。

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皐月彩