コラム

ハンディキャップがある人たちの「ふつうでありたい」という想い。

私たちは、どれだけ隣にいる人のことを知っているだろう。
なんでも話せる関係という言葉の「なんでも」には、なにが詰まっているんだろう。
そもそも、すべてを話していることが、ほんとうに素敵な関係なのかわからない。

学生時代、運動部にとても素敵な先輩がいて、
その人が廊下を通るたびに私はつい目で追いかけていた。
別に恋愛感情ではなかったけれど、彼につい目を吸い寄せられてしまう
とてつもない素敵な空気を感じていた。
彼が義足で暮らしていたと知ったのは、彼が卒業した後だった。

義足であったことを、彼の部活の友人を含め、同級生も、彼の担任をしてきた教師以外も誰も知らなかった。

彼が、最初の担任と相談して、「言わない」選択肢をとったおかげで、彼は他の生徒たちと同じように扱われる生活を手に入れていた。

部活をしたい。普通に足のある人たちと競いたい。
特別な補助をしなきゃという目で見られたくない。
誰かに恋をしたら、人と同じように人柄で見られたい。
かわいそう、助けたい、なんて思われたくない。
自分だって、ふつうに生きているんだから。

隠し続けることは困難だっただろうし、
本来隠してはいけないような機会もあっただろう。
けれど、彼のそんな思いに、担任教師たちは懸命に答えていたから
彼は学生生活を、他の生徒と同じようにすごせたのだと思う。

誰かがけがをしたら、助けてあげなさい。
誰かが悲しんでいたら、手を差し伸べてあげなさい。

私たちは、助けないという選択肢を誰にも習うことはない。
人を思いやる=支えになってあげる、ということだと思い、
それを忠実にまもってきた。

そうして助けられてきた人も
そうして安心できた人も
これからもそうしてほしい人もたくさんいるだろう。

それは絶対に間違いではない。
間違いではないのだ。

けれど、時に助けられることが苦しくて
悩んでしまうことがあることも、また
どこかの機会で知ることができたら、と思う。

私たちは夢を見る。
叶うか叶わないか分からない夢に、
現実や、金銭や、実力や、その夢の大きさや、協力者や
沢山のものを積み上げて、頭を抱える。

そう思うと、彼らと私たちは何も変わらないではないか。
壁を見て、悩んで、どう超えようか努力をして、
私たちと変わらずに悩んでいる彼らに、
敗けていられない、追いつかれるものかと焦らなくてはだめなんだ。

彼らは恐るべきスピードで、
自分たちの未来に向かって日々を生きている。
私には何ができる? 追いつかれないように、追い越せるように。
私も、挑戦者として、胸を張らなければいけないのだ。

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皐月彩