
第十夜 じゆうなせかいで、わかる、は、ばらばら
国語が苦手だ。
人とのコミュニケーションも、いつもモニャモニャしてしまってばかりでよく怒られる。
そもそも物語を書いたりしはじめたのは、うまく言えない気もちを何とかこねくり回してでも伝えたかったからだった。
そんな私だけど、高校時代の国語の授業はけっこう好きだった。
今ものその授業が続けられているかは定かではないけれど、紹介したい。
わたしの高校は単位さえ足りていれば卒業ができる学校だった。
だから、楽な授業だけをとる子もいたし、勉強一筋も、習い事のために早めに退散することも、できた。だけど、必修の国語の授業からは逃げられなかったんだなあ。
どうせ問題を作った人の解釈で「その考えは間違っています」とか言われるやつでしょ。と、わたしは完全にやる気なく席に座っていた。
担当は生徒たちに下の名前でよばれている先生だった。
先生は、課題図書を発表したあと、こう言った。
「これを読んで思ったことを、一人一人に授業してもらいます」
ええっと色んなところから「めんどうくさい」声があがった。
国語なんて解きかたがわかれば簡単なんだよととくい気に言っていた女子もイヤな顔をしてた。
テーマは自由。小説に出てくるモチーフをテーマにするなら、内容はなんだっていい。
驚くほどざっくりとしたものだったけど、もうわたしの頭はワクワクとアイディアでいっぱいになっていた。
ウケる授業がやりたい!!!!
本がボロボロになるくらい持ちあるいてアイディアを練った。
結局どんな授業をしたのか、つゆほども覚えてないのだけど、
〇〇な感情をくみとらなくちゃいけない、とか、作者はこう考えていたはずだ(問題制作者の妄想)みたいなものから解放されたあの時間は当時のわたしにとって、最高にイケていた。
高校三年生になると、えらぶ本が自由になった。
贋作王ダリという完全エンタメな随筆についてつばが飛ぶくらい熱弁した。
芸術家がお金をもうけることについて工夫をこらしていた、ほかの芸術家とはちがう生態の面白さをみんなに伝えたかった。
ダリ超おもろいやん! とだれかが言った。
生きていくうえで、たくさん本を読む必要はべつにない。
おもろいじゃん! けっこうイケてるじゃん。そういうざっくりとしたトキメキを、もっと先生たちも評価してあげてほしいのだ。
そしたら、もっと子どもも読書感想文とかをためこんだりしなくなると思う。
文章というものをどういう角度から読んでいくのかは自由でいい。
それぞれ「わかった!」と思うまでにとおるルートもちがって、共感できるかできないか100パーセント世論がかさなることもない。
文章を書いている人だって、その人のことば一つを抜きだして分かった気になられたら、ちょっとムッとしてしまう気がする。
もし、自分の子どもが学校で習ってくる国語にうんざりしていたら、解説の文章なんて気にするなと笑いとばす親になりたい。
こんなこと言ってて、何年後かに「どうしてこんな問題も解けないの!」と子どもをしかり飛ばしていたら、どうか頭をはたいてやってください。
23歳のお前のほうが、もっとイケてたぞ、って。